蔵を知るミニ百科
制作 喜多方蔵の会
文 須磨 章
「喜多方蔵の会」は蔵への理解と保存をのぞむ会です。この小冊子は須磨章氏に依頼して、喜多方の独特な蔵文化を持つ人々の生き様をほんの少しだけ紹介してみようという「喜多方蔵文化の入門編」です。これを読んで少しでも「蔵」や「蔵文化」に興味を持つ人が増えたら素晴らしいという想いから「地方の元気再生事業」の一環として制作したものです。
興味をお持ちになった方は本編の『日本一の蔵めぐり』(須磨章著 三五館)をぜひお読みください。
2009年 3月 制作 喜多方蔵の会
目次
I. 蔵ずまいの心
II. その歴史と風土
III. 金田実 語録
IV. アートとしての蔵
V. 蔵あれこれ
T.蔵ずまいの心
○ことわざ四点
一に嫁とり、二に孫もうけ、三に宝の蔵を建て
こんな歌が喜多方にはある。「いい嫁を迎え、跡取りを決め、立派な 蔵を建てればお家安泰、男の人生は万々歳だ」ということだ。
仲人は蔵三つまではさばをよんでもよい
本人の素性や人柄についての嘘は言えないが、家柄や資産の目安に なる蔵の大小や数を少々大げさに語ることは、大目に見るというこ と。
年増女房は蔵が建つ
年上の女性と結婚すれば、経済のやりくりがしっかりとしているの で、自然と金が貯まり蔵が建つということ。
男四十にして蔵をもてぬようでは、一人前とはいえない
蔵をもつことが「男の甲斐性」と言われた喜多方の人々のメンタリ ティーがよく表れている。
○蔵座敷
蔵を単なる貯蔵のためではなく、そこで日常生活を送るため、あるいは客人を迎えることを目的にして建てたのが蔵座敷だ。それぞれに趣向を凝らし、建てた人の想いが込められており、喜多方の蔵の最大の特徴であり、魅力だともいえる。
隠居した旦那が暮らす、仏間と八畳程度の居室がひとつながりになった蔵座敷と、冠婚葬祭の集まりを催す事ができる何十畳という大広間の蔵座敷とがある。
○蔵屋敷
喜多方には、全体が蔵造りの屋敷がいくつかみられる。その代表例が、村松の上野利八家だ。広大な敷地には、三カ所の庭、二つの池、そして六棟の蔵がたくみに配置されている。
玄関を入ると、正面と右手に重厚な黒漆喰の観音開きが構え、圧倒される。正面には板敷きの応接間が広がり、右手には茶の間、仏間、来客用の座敷がつづき、開放すれば48畳の大広間になる。
別棟の煉瓦蔵を改装して、趣味の品々が置かれたサロンにするなど、ご当主が楽しみながら、蔵ずまいを続けている。
○烏城(うじょう)
黒漆喰の偉容を放つ甲斐本店の別名である。巨大なカラスに見えることから、そう呼ばれる。
蔵座敷は二十四畳と二十七畳の二間つづきで合わせて五十一畳もあり、喜多方を代表する豪華なものだ。
四代目、甲斐吉五郎が四十歳から四十七歳までの男盛りの七年間を費やし、全国から銘木を集め贅をこらして建てられた。大勢の職人達が近所でお金を使うため「甲斐様のお宅ではお金を刷っている」といわれたというエピソードも残っている。
有料で公開されている。
○蔵を引く
いわれのある蔵、貴重な蔵を引いて移築すること。
大和川酒造店の八代目佐藤弥右衛門は、取り壊されることになった老舗・年男酒造の蔵座敷をもらいうけ、土壁はすべて落とし、レールに丸太を交差させ、その上に骨組みだけを載せて引いてきた。
警察に「道路使用許可」願いを提出して、交通量の少ない早朝に作業が行われた。移築先に着いてから土壁と白漆喰を塗り直し、かかった経費は総額五千万円という。「蔵ずまい」にこだわる男の心意気といえるエピソードだ。
現在、その蔵座敷は、北方風土館の入り口に鎮座している。
○スーパーレディ
甲斐さま、大善さまと並び称された矢部家の蔵座敷を、一人で守ってきた矢部経子さんのこと。
昭和天皇の皇女・清宮貴子さまの乳母(めのと)をつとめた経歴がある。その血筋の良さと、呉服商と倉庫業を営みながら旧家を切り盛りしてきた才覚と、スラリとした容姿から、町の人たちから「聡明な美人さん」と呼ばれていた。
矢部家の蔵座敷は三十二畳、甲斐家とは趣が違った品の良い佇まいで、眼前に広がる日本庭園も素晴らしい。
「木々は美な ましろに雪のふりつみて
はつ日のどかに さしいでにけり 良子」
(行あけ)
という昭和天皇の皇后様からの和歌が、床の間にかけられている。
○“蔵ずまい”の旦那
家長になれば蔵座敷で寝起きをし、蔵座敷で書画、骨董、謡などの教養を高め、人生を全うするのが男の生きる道。そんな文化が喜多方では脈々と受け継がれてきた。
先代が亡くなると、いそいそと夫婦二人で八畳一間の蔵座敷に移り住み、病気療養中もそこで過ごし、家族揃っての食事以外は蔵座敷で暮らした旦那様がいた。
そんな冠木伊右衛門さんへのインタビューだ。
Qこの蔵座敷で何をされることが多いのですか?
A寝ることが多いね。あとは絵も描くし、本も読むし、大工仕事もするし、昼寝もする。何でもここだね。
Qいい部屋ですね。住んでみたいものだ。
Aそれはよその土地から来た人だから思うのでしょう。私たちは昔から当たり前だと思っているから、米のメシを食っているのと同じでなんにも感じないねえー。
(昭和50年放送 「新日本紀行・蔵ずまいの町」より)
○蔵見台
蔵ずまいの文化は旧家や老舗の旦那衆だけのものではないと知ったのは、ある農家のおじいさん(遠藤清市さん、当時七十九歳)が庭につくったという蔵見台≠セった。わら細工を編んでは町で売り、厳しい家計の中で建てた蔵座敷(隠居蔵)を眺めるための、いわば見晴台だ。そこに立ってのインタビュー。
Q蔵を建てるにはお金がいるでしょう。
Aうん、ひととおり、ふたとおりの苦労ではありません。しかし、蔵というものは見てても見場がいいし、なんでもかんでも蔵が欲しかった。その時分、世の中、中流以上の者でないと蔵座敷≠持っていなかったわけだ。それで俺も、あるいは中流以上に座する身の上になったかなと思って建てた。「何とか蔵座敷を建てて一生を過ごす」そういう考えのもとに建てたんだ
蔵を眺めながら眼を細めて話してくれた。そして私のほうに向きなおって、顔全体を皺くちゃにして、いかにも嬉しそうに笑いながらこうつけ加えた。
私はそのー、蔵座敷の愛好者だから、死ぬまで蔵座敷の中で寝起きするわけです。寂しくなんかちっともない。ばあさまはいないけど寂しくはない。子供も孫も立派になっているから、私は安心してあの蔵に寝ているんです。うん、けっしてよその考えはありません。
(昭和50年放送「新日本紀行 蔵ずまいの町」)
と今度は高らかに笑った。
清市おじいさんは今は亡く、蔵座敷も蔵見台も残念ながら数年前に取り壊されてしまった。
U.その歴史と風土
○蔵の種類
酒蔵、味噌蔵、醤油蔵、漆器蔵など地場産業と結びついたものから、物置(収納)蔵、店蔵、商品蔵、座敷蔵、隠居蔵、そして外便所を蔵造りにした厠蔵や、隣との境界線と貯蔵を兼ねた塀蔵といった珍しいものまである。
その種類の多さから、喜多方はさながら土蔵文化の博物館≠ニいえる。
○蔵の数
喜多方旧市街で二千六百棟あるといわれてきたが、市町村合併後ではその数が四千棟以上だという。固定資産台帳を基にした数字なのでかなり正確だろう。
意外なことに、合併後の方が、一人当たりの蔵の数はわずかながら多くなっている。旧市街に限らず喜多方盆地全体に蔵が多いことが証明されている。
○三十八間蔵
全長70メートルの喜多方を象徴する嶋新の商品蔵=B喜多方の観光ポスターを飾ったこともある。
明治15年に完成したという長大なこの蔵には、かつて冬場の農閑期に農家の人たちが副業としてつくった、およそ一年分の商品がうず高く積まれていた。
遠く飯豊山麓から背負子(しょいこ)に竹細工や藁(わら)製品をつめ込み、農家の人々は7時間もかけて商品を納めに来たという。
嶋新商店は今はなく、蔵にはガラクタ品や祭りのための山車などが入っているだけで、近年、蔵の傷みが激しく、修復と利活用が緊急の課題だ。
○飯豊の愛(めぐみ)
飯豊山系からの豊穣で良質な伏流水と穀物のおかげで、この地方では、酒・味噌・醤油・の醸造業が栄えてきた。それらの産業には温度や湿度が一定に保たれやすい蔵が重要な役目を果たしてきたといえる。
○藤樹学
「お上も庶民も、武士も町民も人間はみんな平等で、大いに競いあって財をなすことは、卑しいことでもなんでもなく、むしろ奨励されることなのだ」という中江藤樹の教えが、江戸時代から喜多方には浸透してきた。そのことで商業が栄え、自己主張としての立派な蔵を建てるという文化が生まれてきたといえる。
○対抗心
会津藩のお膝元である会津若松への対抗心が表現されている小説「けんかえれじい」が喜多方出身の鈴木隆によって著され、それが高橋英樹主演で映画化されている。そこには、会津中学と喜多方中学のライバル意識が大バトルへと発展していくというストーリーが描かれている。
小説だけではなく事実もある。
旧制喜多方中学(現・喜多方高校)設立の時に、第1期生の中に会津中学に通うことをよしとせず。浪人してまでも開校を待ったという強者が何人かいる。島三商店の長島三六さんがその一人だ。
町の大きさや知名度からすれば会津若松にかなわないが、経済や文化の面ではひけをとらない。むしろ喜多方の方が上なのだという自負心が、蔵を建てるという行為に結びついていったとも考えられる。
V.金田実 語録
写真荘の主人、金田実は蔵の写真を撮りつづけ、人々に「喜多方のアイデンティティーは蔵だ」と訴えつづけた。その行動が全国に蔵の町・喜多方≠フ存在を知らせるきっかけになったのだ。
○あんた、この蔵たちを殺す気かい!
当時の市長・唐橋東氏は各地の集会で「使われていない蔵を壊し、駐車場にして商店街を活性化しよう」とよびかけていた。ある晩、金田実はその市長を自宅に呼び、座敷の畳一面に蔵の写真を並べ、この言葉を投げかけた。
「あんた、この蔵たちを殺す気かい!」
唐橋東市長は、額縁に入った蔵たちの美しさにハッと我にかえり、それ以降、蔵擁護派へと転身する。そして金田の写真展に補助金を出すだけでなく、自作の短歌まで寄せている。
花咲いて住まいも店も蔵がまえ
酒蔵のなかつつ抜けに稲田風
小春日の露地をまたいで醸造蔵
○喜多方の蔵は雪国の蔵らしくどっしりと構え、小さな窓で静かに息をしているようで、なんともいとおしい。
金田実は、「倉敷の蔵は華やか過ぎて好きになれない」と常々いっていた。西の瀟洒な蔵より、北国の土臭く落ち着きのある蔵を愛していたようだ。
○(蔵を撮り始めた動機)
ゆうに観光資源になり得るとまで考えていた故、ようし写して見せてやれ と 難儀な体にむちうって始めた。
まだ高度成長期のなごりが残り、日本中が開発ブームの真っ只中にあった時に、自らの町の古き良き物に金田はしっかりとした視線を向けている。
○(撮影の感想)
撮りはじめる時は金持ちの肩入れをするみたいな一寸した抵抗があったが・・・蔵は何も金持ちの独占物ではなく、庶民的なもの。
金田は市街地の裏通りから農家までくまなく蔵を見て歩き、ひっそりと息をひそめ、蔵とともに暮らす人々の姿を発見している。
○(蔵の特徴)
夏涼しく冬暖かく、住みよい。丈夫で貯蔵に好適。火災にも強く、又、泥棒よけに絶対安全。つまり火に強ければ、外敵をも防げるという武士にとっての城にも匹敵。
先祖が心を込めてつくった蔵を、金田は、武士にとっての城にたとえている。
○「君が蔵を全国に紹介してくれたおかげで、喜多方に大勢の人が訪れ、私も少々閉口している。」
「新日本紀行・蔵ずまいの町」が放送された翌年、昭和五十一年の金田からの年賀状の文面だ。
喜多方の蔵の良さを多くの人に知ってもらいたいと願っていたはずなのに、皮肉というかからかいというか。なにか一言いわないと気が済まない金田の性格がよく表れている。それとも本当に、多くの人が訪れる喧噪に嫌気がさしていたのだろうか。
W.アートとしての蔵
○黒漆喰
もともとは渋好みの江戸っ子が、粋だと好んだ黒塗りの壁。手間、暇、金のかかる贅沢な手法だ。
普通は観音開きの扉に使われるが、蔵全体を黒漆喰で塗り固めた例として、甲斐本店≠ェある。
なたね油を燃やしてつくる煤(すす)は、粒子が細かく色合いが深い最高級なものとされている。その煤を丁寧に濾(こ)して黒ノロとよばれるなめらかな塗料がつくられる。
白漆喰で仕上げたうえに、この黒ノロをごく薄く塗る。まっ白に黒を重ねることで、より深みのある黒の輝きが生まれる。ひび割れしない表面にするために、紙一枚といわれるほどの薄さが求められる。鏝(こて)で黒ノロをのばし、固まってくると、絹の布で表面を磨く。
仕上げは砥の粉(とのこ)をうって、素手でキュッキュッという音がでるまで磨き上げる。自分の顔が映り、鏡のようになれば完成だ。
○観音開き
一段高くなっている蔵座敷などの入り口に構える土蔵造りの扉。
その重さを支えることも難しいが、扉の合わせ目を階段状にピタッと合わせる掛子塗り(かけごぬり)≠ニ呼ばれる技術が職人技だ。通常は開けておくが、火事の際などに閉めると段がぴったりと重なり、小さな火の粉の進入さえも許さない。
○鏝絵(こてえ)
蔵の壁面に、鏝(こて)で浮き彫り風に描く絵のこと。
美しい鶴や鶏などの図柄が代表的。施主への感謝の気持ちを表すために、職人が腕を競ったといわれる。
下三宮の集落に多く見られる。
○家紋と屋号
蔵にはそれぞれの家紋や屋号が記されている。凝った書体や美しく彫塑されたものには、蔵を建てた当主の家への誇りが感じられる。なかには防火の願いをこめて「水」とかかれている例もある
○鍵穴彫金
蔵の入口の引き戸に、鍵穴を包み込むように施された洒落た彫金のこと。引き戸は木製だが、手かけの周囲だけは鉄板が張ってあり、彫金はその鉄板部分に取り付けてある。
島三商店の煉瓦蔵の彫金は、鶴亀に松竹梅を配しためでたい構図だ。
たんなる戸口の装飾に見えるが、実は亀や松が動いて鍵穴を隠す役目もはたしており防犯にも役立っている。
○箱階段
蔵座敷から二階の物置へ上がる階段によくみられる。
階段の下が引き出しになっていて、小物がいれられる機能性も
兼ね備えている。箱を積み重ねたように見えるところからこの名がある。
○縞柿(しまがき)
若喜商店の蔵座敷に使われている特別な模様の柿の木。孔雀杢(くじゃくもく)と呼ばれる波打つような微妙な模様が最高級とされ、それがでる確率は十万本に一本という。見学に訪れた木場の材木店の店主たちに言わせると「床柱一本で一千万円はくだらない」そうだ。
この蔵座敷は八畳間で天井、床柱、敷居、鴨居、そして座卓まで、すべてに貴重な縞柿がつかわれている。ここまでの縞柿づくしは、なかなか見られるもではない。
○花見重
細密な蒔絵、螺鈿(らでん)などの装飾が施され、徳利・杯も収まるように工夫がされている。品の良さと機能性を兼ね備えた花見用のお重。
旧家にはそれぞれ個性的な物があり、蔵座敷の床の間に飾られている。
これにも蔵ずまいの人たちの美意識が感じられる。
かつて本当に花見に使われたものなのか、それとも鑑賞のためだけの美術品なのだろうか、、、。
○ 銘銘膳
冠婚葬祭で多勢の客をもてなすための一人一人用の膳と食器類。
漆塗りだが婚姻披露宴などの祝い用には朱塗り。仏事には黒塗りと二通りが用意されている。蔵座敷の二階や別棟の物置蔵に納められており、甲斐本店にはそれぞれ五十人分が用意されている。
○六尺屏風
敷居や柱を隠し、広間としての一体感を出して宴を催す時の為に、物置蔵に納められている。これもまた、祝い事用と仏事用とそれぞれの色と柄のものが二通りある。装飾性の高さから、普段から蔵座敷に飾られていることもある。
○厠蔵
まるで茶室を想わせるような風情のある蔵造りの厠を、時折みかける。
金田実が撮影した厠蔵は、白漆喰の壁に扉は見事な格子戸で、用を足しながらカマドの番ができるように工夫されていた。
外便所まで蔵造りにするところに、喜多方の人々のこだわりが感じられる。
○煉瓦蔵
登り窯で煉瓦を焼いた樋口市郎と、東京に出て煉瓦積みの修行をつんだ田中又一の二人三脚で、喜多方にはおよそ100棟の煉瓦蔵が、生み出されている。
明治37年に建てられた若喜商店の煉瓦蔵が第一号だといわれており、二階の窓の外側にしつらえられたバルコニー風の装飾が明治の香りを感じさせる。
三津谷には、五世帯の農家に七棟の煉瓦蔵があり異国情緒を漂わせている。特に若菜正男家の家財道具蔵、作業蔵、味噌蔵、そして蔵座敷と四棟が中庭を囲む風景は圧巻だ。
W.蔵あれこれ
○火事と蔵
「ひとたび火がでると、位牌と田畑の台帳など、大切な物をみんな蔵の中に投げ入れて、観音扉を閉めたものだ」
明治13年と18年の大火以降、喜多方の市街地で蔵が増えたといわれている。
藁葺き屋根が多かった農村部でも、ひとたび火がでるとあっという間に延焼し、「村では泥棒の心配はないが、火事だけは怖い」と古老たちは語っている。下三宮の中心部には火の神を祀った古峰神社≠フ大きな石碑が立ち、栃木県にあるこの神社に、毎年村の代表が詣で防火祈願をしている。
「ひとたび火がでると、位牌と田畑の台帳など、大切な物をみんな蔵の中に投げ入れて、観音扉を閉めたものだ」と村の人がいうように、蔵は火事から財産を守る為に欠かせない存在だったのだ。
○蔵とラーメン
喜多方ラーメンが有名になるきっかけも、実は「蔵」にあったのだ。
蔵を見るために、観光バスの団体で来たお客さん達の昼食を何処でしてもらうのか、、、?
悩んだ市の観光係長が、行きつけのまこと食堂≠紹介したところから、喜多方のラーメンが知られるようになっていく。
ラーメンの土台も「蔵」にあり。
○中学生の蔵調査
2005年度に小学生の蔵探検≠ェ市内4つの小学校で総合学習として取りあげられた。それが発展して、2008年度にはトヨタ財団から130万円の資金が出て、市内7つの中学校の総合学習や社会科の時間で中学生の蔵調査≠ェ行われた。
地域の蔵を巡り、建設時期から建て方の様式や特徴、素材、用途や維持管理の苦労などを記録して歩いた。
どの学校も2〜3時限の授業をぶち抜き、学校によっては一日中すべての授業をこの調査にあてたところもある。
若い時から地域の文化遺産である蔵に接するという本来の目的が果たされただけでなく、希薄になっている子供達と地域のお年寄りとのコミュニケーションがはかられるという副産物も生まれている。
○蔵泊
蔵に宿泊すること。
グリーンツーリズムの一環として、農家の蔵を改装してお客さんを泊めることをはじめている。
喜多方は素通りの観光客が多いという悩みがあるわけで、使われていない蔵を利用して、本格的な蔵座敷に泊る体験ができるようにすることが望まれる。
NHKのディレクターとして、昭和50年に「新日本紀行、蔵ずまいの町」で喜多方を全国に紹介し、蔵観光の先駆けとなりました。その後も金田実の半生を中心にした「蔵の夢」を出版するなど喜多方に通いつづけています。
今回の小冊子は短期間で書きましたので、近著の抜粋版ともいえます。
より充実した内容・エピソードをお楽しみになりたい方は、『日本一の蔵めぐり』(三五館)をぜひ手に取ってみてください。
文 須磨 章
須磨 章 (すま あきら)プロフィール
〈現職〉NHKエンタープライズ
シニア・エグゼクティブプロデューサー
世界遺産事務局長
日本ペンクラブ会員
ヒトと動物の関係学会会員
喜多方市ふるさと大使
昭和23年 東京生まれ
46年 慶応義塾大学法学部政治学科卒
昭和46年 NHKに番組ディレクターとして入局
郡山放送局、札幌放送局を経て報道局、NHKスペシャル番組部などで、一貫してドキ ュメンタリー番組の企画、制作に携わる。
主な担当番組として、新日本紀行 蔵ずまいの町 ―福島県・喜多方市―
NHK特集 NHKスペシャル BSドキュメンタリー など多数
〈著書〉
蔵の夢(三五館)
猫は犬より働いた(柏書房)
日本一の蔵めぐり(三五館)
その他